心理学を学び始めると最初は、自分と深いかかわりのある原家族との探求から入る。
私の父は、すごく怖い存在だったので、父親との探求をたくさんやった。
繰り返し繰り返し父親とのことをセッションした。
そのかかわりの中にいる幼い私を見つけて、受容する事ができたとき、初めて父の孤独感と、寂しさも感じる事ができた。
怖いとばかり思っていた父が心の底では、本当は大好きだったんだということにも、気づく事ができた。
そんなとき、ふと母はどうしていただろう?と思ったけど、母のことは全然記憶になかった。
幼い頃の出来ごとの中で、父の事はたくさん出てくるが母は見えない。
母親とのことを封印している?
そういえば、それを思わせる出来事が、最近あった事を思い出した。
他の人のセッションをモデレーターとしてみていたときのこと。
クライアントが、話の深い方に進むたびに抵抗して、「わからない 感じません・・」といっているのをみて、肝心なところから避けようとしているように見受けられた。
感情を抑圧している。
そのとき私は、ハッとしてしまった。
これって私と同じパターンか?
ということは、私は、実母との関係性の中に、観るべきところがまだまだある。
ということか?
ということで母を探求することになった。
それからしばらくの間、瞑想をしたりして、自分の内側を探求することになった。
母との記憶・・私が幼いときの母は??ずーっと記憶の中の母を探していた。
すごーく遠い昔のこと、私は2~3歳、母の右隣をトボトボと歩いていた。
母は、誰か幼子をおぶってねんねこ半天を着ていた。
辺りは薄暗く、途方に暮れていた私は、もう歩けない~と言おうとして母の顔を見た。
そしたら、なんと母が泣いていた。
泣きながら歩いていた。
私はその涙を見て凍りついた。
その時から私は、母への想いを封印してしまったらしい。
これは誰かの手を借りなければ。
ということで個人セッションを受けることにした。
母のことをたくさんたくさん話した。
私は長女で、1歳半下に妹がいて、そのあとに、弟と妹がいた。
私はよちよち歩きの1歳過ぎた頃には、もうお姉ちゃんという役割だった。
母は、終戦まもないあの頃、4人の子供と、無口で働き者だが、酒乱癖のある夫とともに、生きるのに精一杯だったんだろうなと思いを馳せた。
そしたらまた、思い出した。
私が中学生の頃、洋服タンスの奥から、紙切れを見つけた。
見覚えのある母の字で、綴られていたのは、この世に酒というものがなければ・・・という夫の酒乱への恨みつらみが綴られていた。
母の辛さを垣間見てしまった私は、またも母に何もいえず、一人この思いを封印してしまった。
そんな状態の中で私は、母への愚痴めいたことは一切記憶にない。
それでも私は個人セッションを進めるうちに、母の忍耐強さ、生きる智恵袋の豊かさ、したたかさ、そして賢く商売人の力強さをたくさん思い出すことができた。
母は、酒乱だけど働き者の夫と、涙もたくさん流したけれど、したたかにたくましく生きてきたんだ。
ということがわかった。
ああ~私は、母と同じ道を歩んでいるわー
私は小さい時は父親に怯えながら、結婚してからは姑に泣かされながら、3人の子供を育て、夫の会社経営に関わって、たくましく生き延びてきた私の人生は、母の背を見ていたから乗り越えられてきたんだ!
まさにあの母を見ていたから、踏まれても立ち上がるしたたかさを持って乗り越えられたし、たくさんの涙も体験したから、情の深さも感じることができたんだと思える。
私は結婚してから、自営業の家に翻弄されて、急に体が弱くなって、何回も救急車で運ばれたし、入院もたくさんした。
二番目の息子を産んだ年には年に3回も入院していた。
その度に母は沖縄から駆けつけて、1~2ヶ月世話をしてくれた。
大きな手術をした時には、布団を持ち上げることもできなかったので、2ヶ月ほど世話をしてくれた後、お父さんが待っているから帰らなくちゃと言いながらも、私のことを不憫に思ったのか、1歳半の息子を沖縄に連れて行って半年間預かってくれた。
そんなに世話になった母なのに、母が年老いて、体が動かなくなった時に、私は、家庭があって離れられず、沖縄の母の身の回りの世話ができないことを、悔やんで泣いたら「あなたはそれを自分の子供にその思いを返しなさい」順送りだからね」と言ってくれた。
だから私は、自分の孫が生まれた時に、母への恩返しのつもりで、娘たちの産後のお手伝いをさせてもらっている。
母のことを、可哀想な人生だったと思っていたのは、幼い私の勝手な思い込みで、母は母なりに幸せな人生だったんだろうなと思った。
人は年月を重ねていったときにこそ、見えてくるものがある。
若い頃は夢中で走り続けているので見えないことも、いろんなことを経験したからこそ、その思いがわかる。
年を取るのも悪くないなあ。
と思うのです。